愛車には、愛を

VOL.267 / 268

竹下 元太郎 Takeshita Gentaro

1967年生まれ、東京都出身。
当時の二玄社には1992年に入社。webCGなど、さまざまな業務を経て2018年から1962年に創刊されたカーグラフィック(CARグラフィック)の編集長を務める。愛車遍歴は大学生の頃、3万円で購入したホンダZを皮切りに、プレリュード、ロードスター、アルファ・ロメオのジュリアを経て、現在はフォルクスワーゲンのポロGTI(マニュアル車)。

1962年から続くカーグラフィック誌の編集長を2018年から務める竹下元太郎さん
スーパーカー世代に育った彼の半生を振り返ってもらいつつ、今後の雑誌業界や自動車業界の未来を想像してもらった

愛車には、愛を---[その1]

(エンケイニュース2021年3月号に掲載)

1996年8月、ラリーレイドモンゴルにコ・ドライバー(助手席に乗ってナビゲーションを担当)として参加。

 スーパーカーブームに感化されて、小学生の頃から自動車雑誌を読み始めました。当時8〜9歳で、夢の世界から車の世界に入っていったわけです。スーパーカーショーに何度も行き、ランボルギーニ・イオタ、カウンタックを見て、20年後は空を飛ぶんじゃないかと信じている少年のひとりでした。
 中学、高校の頃は、バイクのレーサーレプリカ黄金時代。最初に登場したのが、私の世代だとヤマハRZ350ですかね。そこからホンダNS、カワサキGPZと出てきて、どんどんバイクに興味を持ちましたが、私はどちらかと言うとオフロードバイクが好きでした。大学生になって最初に入ったのがサイクリング部。自転車で峠を上ったり、下ったりするツーリングをする活動の中で、オフロードバイクが走っているのを見かけたんです。あっちの方が楽しそうだと、それを機に大学2年生から4年生まではオートバイ一色になりました。オフロードバイクで北海道ツーリングへ行ったり、桶川のコースでモトクロスの真似事をやってみたり。サークルを作って活動していましたが、部員は4人ほどでした(笑)。
 折しも、篠塚建次郎さん、チーム子連れ狼の菅原義正さん、三好礼子(山村レイコ)さんが活躍していて、松任谷由実さんが応援団長で現地に行ったりして、パリ-ダカールラリーが盛んな頃でした。私もパリ-ダカールラリーに行きたいと思い、日夜バイクでの練習を始めました。砂漠を走る練習はできないので、行ったことがある人に「どこで練習をすればいいですか?」と聞くと「行くしかないよ」と言われて、「やっぱり行くしかないか」と納得。ずっと夢を見ていた時代です。

1997年の秋からカーグラフィックの長期テスト車としてアルファ・ロメオ1750GTV(1971年型)を担当。壊れては直しを繰り返したおかげで情が移り、テスト終了後に買い取り2004年まで所有した。

憧れの砂漠ラリーへ

 出版社での仕事を始めたのは1992年で、1996年に「モンゴルラリーへ行かないか?」という誘いがありました。モト(二輪車)ではなくオート(四輪車)部門での参加で、コ・ドライバーとして助手席に乗ってほしいというものでした。もちろん、仕事の一環で行かせてもらえることになり、そこから参加資格を満たすため国際C級ライセンスを取得して、さまざまな準備をしてモンゴルへ行きました。憧れていた「砂漠のラリー」という世界の扉が開いた瞬間でした。
 帰国すると、翌1997年1月のパリ-ダカールラリーに向けて、またオートのコ・ドライバーとして助手席に乗らないかという声がかかりました。順位やタイムを狙う車両ではなく、取材を目的にした参加車両ですが、パリ-ダカールラリーがとうとう自分の間近までやって来ました。当時はまだアフリカで開催され、冒険的な要素が残っていた時代です。
 ところが……。時の編集長からは「ダメ」と言われてしまいました。「何週間行くんだ?」「1ヶ月くらいです」「じゃあダメ」。今思えばごくごく常識的な対応で、自分が編集長でも反対しますよね。それを機に砂漠ラリーが離れていってしまい、パリ-ダカールラリー自体もアフリカ開催ではなくなり、私の夢は叶わないものになってしまいました。

運命の出会い

 話は前後しますが、自分がカーグラフィックに入った理由を少し説明しておきます。もともと大学は法学部で、保険法ゼミを選んでいました。一般的には保険会社に就職するのが正規ルートですが、40人いるうち1〜2人がマスコミ系の就職をしています。まさか自分がそうなるとは思ってもいませんでした(笑)。冷静に考えると異端でしたね。
 就職活動ではマスコミ全般を対象にして、その中でも新聞記者になりたいなと考えていました。とくに車関係の何かを探していたわけではありません。ただ、自分が好きだった車もということで二玄社さん、その他の出版社も受けたのです。
 転機となったのは、二玄社さんのカーグラフィックの面接に行った時でした。当時の編集長だった熊倉重春さんも面接に同席していただきました。アロハシャツを着て出て来られたのを今でも覚えています。そこでいろいろお話をしていくと、非常に魅力的な方で、面白い業界だなと感じたのです。あと個人的にどうやったら自動車ジャーナリストになれるのかが謎でした。カーグラフィックTVを見たり、自動車雑誌を読んでいる中、そこで執筆したり、登場している自動車ジャーナリストの人たちはどうやってこの仕事に就いているのかを知りたかったんです。カーグラフィックの面接で、それが少し見えたことも魅力だったのかもしれませんね。たしか6月に内定の通知をいただき、迷いなくそこに決めていました。

2010年4月、茨城県城里町の日本自動車研究所での1枚。
隣は塚原編集長(当時)で、竹下さんは副編集長だった頃。

保険会社への就職がほぼ100%だという進路から逸れ竹下元太郎さんは二玄社、カーグラフィックへ
編集長となった今はどんな視点で自動車業界と雑誌業界の未来を見ているのかを語ってもらった

愛車には、愛を---[その2]

(エンケイニュース2021年4月号に掲載)

2017年4月、フランスF4選手権のフォーミュラカーに試乗。フォーミュラの豪快でありながら、繊細な運転感覚に感動した。あと20年若ければ……。
アブダビのヤス・マリーナ・サーキットで。

1000万円は安い?

 カーグラフィックの編集長になったのは、2018年の5月1日です。今でもよく「輸入車や高級車をよく扱うよね」と言われますが、編集部に入ってみると結果的に高級スポーツカー、高級車を扱っている事情がよく分かりました。我々が大切にしているテーマは、その車がどれだけ目的に沿った製品になっているかどうか。いかに合目的性、あるいは合目的的であるかが尺度なのです。スポーツカーなら思いっきりスポーティであるべきですし、高級車なら思いっきり高級であるべきだと追及していった結果なのです。
 この世界に入ると、1000万円でも安いと言うようになり始めます。絶対値としては高いので、そこは車に飲まれず、我に返る必要がありますが、メルセデス・ベンツのSクラスやポルシェ911に乗ると、飲まれないわけがない。圧倒されるんです。それを公正に見られる立場になるまでにはそれ相応の時間がかかり、自分の中での尺度を確立する必要もあります。ただ、車の世界に首までどっぷり浸かると周りが見えなくなってきて、だんだんと「Sクラスは良くできている」「この内容なら安い」といった偉そうなことを言うようになっていくのです(笑)。ただ、私は読む側の人に寄り添うという基本を外したくはなかったので、1000万円を安いというのは問題があるだろうと思っています。自分はおかしくなっていないよなと常に気づきを持つようにして、人から指摘されたら、むしろ感謝するくらいの心意気でやっています。
 車を見る際、私はふたつの視点を持つようにしています。ひとつは移動の質を含め、車を買った人にどれだけの利益をもたらすか。もうひとつは、その車が自動車文化に対してどれだけプラスとなり、次の技術に貢献するかといった文化的視点です。毎年のカーオブザイヤーの自分の選考基準は、そんな尺度をもとにしています。
 一方、雑誌の記事に落とし込む上では、それだけでは足りません。雑誌としての面白さには別の軸があるのです。面白おかしくて笑ってしまうということではなく、知的好奇心をくすぐる内容ですね。読者の多くが知りたいと思っている〝穴〟があり、そこにぴったりはまるものが面白いもの。その穴を探していくことが編集者の仕事になります。雑誌とウェブの一番の違いは、編集が間に入ること。次の号の内容を読者が選べるわけではないので、雑誌を読んだ読者に発見があることが何より大切です。「間口は広く、奥行きは長く」。そうした雑誌作りが、インターネットが普及した今はより求められています。

2012年7月、トライアンフ・タイガーエクスプローラーに箱根で試乗。昔からパリ・ダカールラリーが好きだった。中でもアフリカの砂漠を行くセクションに憧れていた。いつかはこんなビッグオフローダーに乗って旅をしたいと思っているが、いまだ果たせず。写真=小林俊樹

残したい「運転する喜び」

 自動車業界で使われるようになった「CASE」という言葉は、Connected(コネクテッド)、Autonomous(自動運転)、Shared & Services(シェアリングとサービス)、Electric(電動化)の頭文字をつなげたものです。平たく言えば便利になるのですが、その代わりに奪われるのが自由です。雑誌としてCASEを望んでいないわけではありませんが、やはり自分が主体となって運転できる部分を残してほしいのが本音です。
 実は、今ですら自分の意志や技術だけで走れる車はほぼありません。たとえば雪が降る夜、スタッドレスを装着した車で隣町まで買い物に行ったとしたら、ほぼ問題なく帰って来られますよね。でも、それは自分の運転技術が高いからではなく、素晴らしいヘッドランプがあり、雪道でもスリップすることなく走ってくれる車の制御能力とタイヤがあるからなんです。自分の能力以上のことを車がしていると思うと、すでに自由はないのかもしれませんが、であるならば自分で運転している実感を残す制御を維持してほしいですね。もちろん事故がなくなり、排気がきれいになって温暖化が進まない世の中を望みますが、運転する喜びや「俺のおかげで隣町まで行けたぜ」と思える車が残っていくことも同時に願っています。
 あとは自分で積極的にモディファイできる楽しさも残してほしいですね。今はホイール、ドラレコ、ハンドルカバーくらいしかいじれる場所がありません。ハンドルを換えるとエアバックが機能しなくなり、車高を換えるとソナーのキャリブレーションをとらないといけないと言われる時代です。自分でいじれる〝メイド・フォー・ミー〟な要素を残していきたいですね。というのも、車ってやはり自己表現のひとつだからです。ステッカーを貼るだけでもそう、ボディカラーを塗り替えるのもそう。それをした瞬間に自分のものになるという感じがしますよね。値落ちを考えて「ノーマル維持」も賢い乗り方ですが、愛車なのですから愛を注いであげたいですよね。跳ね石でフロントガラスに傷が入ったとしても受け入れる。それもひとつの愛車の経歴だと思えないと、動かさない方がいいという結論になってしまいますからね。

2019年5月、伊トリノのカロッツェリア「MAT」でパオロ・ガレッラ代表と。後ろの車は同社の代表
作であるニューストラトス。

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